第六章 インターネット時代の英語と〈国語〉
この章では、いよいよ現在、直面している〈国語〉と文学の危機について語られます。
単行本が発刊された2008年、著者はすでに「英語の世紀に入った」と書いていますが、その頃は、まだ多くの人は「いずれそうなるか」といった程度の認識だったと思います。
しかし、2022年の今はもう、どんなに鈍感な人であれ、英語が使えるかどうかで取れる情報の量や質が大いに変わってくることに気付いています。東日本大震災や、新型コロナ感染症拡大などの非常時は、とくに、それを強く感じる機会でした。
「インターネットという技術の登場によって英語は普遍語としての地位をほぼ永続的に保てる運命を手にした」と著者は言い、英語という普遍語を解する人だけが、ネット上の〈大図書館〉にアクセスできるようになったわけです。
もちろん、2008年には考えられなかったほど、無料の翻訳サービスなどが提供されるようになっていますが、翻訳の適正がわかるほどには英語力が必要であるし、そもそも英語に悪戦苦闘する人は英語の情報をわざわざ取りにいこうとはしない現実があります。
結果、現在は、翻訳による知の吸収ができた〈国語〉の世紀を越えて、「普遍語と現地語の二重構造が再び蘇ってきた」時代に入りました。
もはやフランスでも、ドイツでも、スペインでも、中国でも、韓国でも、多くの研究者は現地語で論文を書きません。英語で書かれた論文だけが、価値を得て発信される時代になっています。
さて文学は……。
学問では答えの出ない問題を考えるものとして、あらゆる思考を詰め込む箱として、私たちの人生を豊かにしてくれる文学は、どうでしょう。
著者は、文学自体は求められ続け、亡びないと言っています。
しかし、日本文学は、亡びへの悪循環に陥る。それが、本書タイトルの「日本語が亡びるとき」です。
引用P319~320
悪循環がほんとうにはじまるのは、〈叡智を求める人〉が、〈国語〉で書かなくなるときではなく、〈国語〉で読まなくなるときからである。〈叡智を求める人〉ほど〈普遍語〉に惹かれてゆくとすれば、たとえ〈普遍語〉を書けない人でも、〈叡智を求める人〉ほと〈普遍語〉を読もうとするようになる。-中略- 〈叡智を求める人〉自身が、自分が読んでほしい読者に読んでもらえないので、だんだんと〈国語〉で書こうと思わなくなる。その結果、〈国語〉で書かれたものはさらにつまらなくなる。当然のこととして、〈叡智を求める人〉はいよいよ〈国語〉で書かれたものを読む気がしなくなる。かくして悪循環がはじまり、〈叡智を求める人〉にとって、英語以外の言葉は〈読まれるべき言葉〉としての価値を徐々に失っていく。〈叡智を求める人〉は、〈自分たちの言葉〉には、知的、倫理的な重荷、さらには美的な重荷を負うことさえしだいに求めなくなっていくのである。
では、私たちはどうこの現実と向き合えばいいのか。
いよいよ最終章に入ります。