EditorsJuniorの日記

編集・ライター兼オンライン型寺子屋の講師が書籍を紹介したり、日常を綴ったりします。

背伸びしても読むべき中高生からすべての大人向け『日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で』水村美苗/ちくま文庫 <終>

第七章 英語教育と日本語教育

最終章で著者は、「英語教育と国語教育」について大胆な提言をします。

まだ、道を選び直すことはできるけれど、それが叶わなければ、私たちは日本語が亡びゆく過程を正視するしかないと。希望と諦念の間に横たわる闇、苦い味わいを残して稿を閉じます。

著者の述べる大胆な提言とは、以下の2点です。

1)英語教育においては、平等主義を捨て、格差教育をする

2)日本語教育においては、すべての人の日本語力向上を目指すこと

要は、「英語の世紀」になった今、日本が必要とするのは、優れた英語で「意味のある発言ができる」英語エリートであって、すべての日本人が日常会話程度の英語が使えるようになることを目指すべきではないという割り切りです。

英語エリートたちは、「英語を苦もなく読め」、発音などは悪くてもいいから(それぞれの母語の訛りがあって当然なのが〈普遍語〉としての英語のあり方)、「苦もなく話せなくてはならない」し、優れた英語の書き手でなくてはならない、と著者は言います。とくに、インターネットの登場によって、英語を読んで書く力の重要性が増していることを強調します。

そして、限られた教育投資で、このような優れたバイリンガルを十分な数、育てるには選別が必要だというわけです。

 

この本が出版された2008年から10年以上が過ぎ、小学校での英語科スタートや、高校入試や大学入試における英語四技能評価など、英語教育に動きが出ています。これによって、ほとんどの日本人が英語で観光案内さえできないという状況は変化するかもしれません。

一方、一部の私立学校では、英語教育や、中高での留学プログラム、ダブルディプロマ制度が拡充し、国際系大学・学部の増加も目立っています。海外大への進学も当たり前になってきました。

著者が言うような「選別」は、国主導というより、家庭の方針・経済による教育格差によっておのずと生まれ、一部の英語エリートが育ちつつあると感じます。

また、大学院受験や公務員試験、民間企業の採用基準においても、TOEFLTOEICなどの点数が重要視されるようになってきました。

数年後には、少なくとも政治経済のリーダーたちは、優れた英語の使い手であることが必須になる時代が、来るかもしれません。

 

ところが、

2)日本語教育においては、すべての人の日本語力向上を目指すこと

という点においては、日本の初等・中等教育は、まったく違った方向へ進んでいるといえるでしょう。

もっとも議論を読んでいるのは、新指導要領による高校国語の科目再編(2023年度~)です。国語は、「論理国語」と「文学国語」と、(不自然に)分けられてしまいました。

「論理国語」では、説明文・実用文を取り上げ、従来学んできた小説や詩歌は「文学国語」で扱い、その選択は学校ごとのカリキュラム編成に任せるという新しい方針。

とはいえ、昨年、新しい国語教科書の検定がニュースになった際には、結局、「論理国語」の教科書にも夏目漱石の『こころ』などが参考資料として縮小掲載され、「文学国語」にも論説文が掲載されたと報道されていました。

要は「国語科の現場としては、論説文と文学をきりはなせないよ」という、使う側のニーズが優先されたようで、検定する文科省側もそこは了承せざるを得なかったのでしょう。

それにしても、この科目再編で共通テストなどは、どうなるのでしょうか。

いわゆる進学校では、「論理国語」も「文学国語」も学ぶところが多いようですが、「論理国語」だけを選択して共通テストに備える高校生が増えるとしたら、水村美苗さんの憂慮する道をひた走ることになる気もします。

もちろん、「論理国語」は、せめて日本語の説明文くらい、すべての人がきちんと読めるようにする、という現実的な教育目的によって設定されたものかもしれません。教育を受けるすべての人の日本語力向上に資するものかもしれません。

しかし、『日本語が亡びるとき』で語られている「日本語の亡び」とは、漱石や鴎外を代表とする日本近代文学(日本語が国民の言葉として高みに登って豊饒だった証)が、一部の学者にしか読まれなくなる、読めなくなることを指しています。

だからこそ、「日本の国語教育はまずは日本近代文学を読み継がせるのに主眼を置くべきである」と著者は主張します。

今でも、日本近代文学を教科書以外で読む人は少ないでしょう。

それが、限りなく減少していくとしたら……。

最後に、少し長くなりますが、著者の日本語への思いを引用しておきます。

引用 P 347

だが、これから先、日本語が〈現地語〉になり下がってしまうこと―それは、人類にとってどうでもいいことではない。たとえ、世界の人がどうでもいいと思っていても、それは、遺憾ながら、かれらが、日本語がかくもおもしろい言葉であること、その日本がかくも高みに達した言葉であることを知らないからである。世界の人がそれを知ったら、そのような非西洋の〈国語〉が、その可能性を活かしきれない言葉―〈叡智を求める人〉が読み書きしなくなる言葉になり下がってしまうのを嘆くはずである。〈普遍語〉と同じ知的、倫理的、美的な重荷を背負いながら、〈普遍語〉では見えてこない〈現実〉を提示する言葉がこの世から消えてしまうことを嘆くはずである。

人類の文化そのものが貧しくなると思うはずである。

少なくとも、日本語をよく知っている私たちは、かれらがそう思うべきだと思うべきである。

※アンダーライン部傍点あり

 

この章で著者が引用して論じていた『あえて英語公用論』船橋洋一/文春新書/2000年発行 船橋洋一氏が英語公用語戦略としてあげている事項のうち、公式文書の日英併記、国会議員の英語力開示などは、すぐにでもできる提案かもしれません。