EditorsJuniorの日記

編集・ライター兼オンライン型寺子屋の講師が書籍を紹介したり、日常を綴ったりします。

背伸びしても読むべき中高生からすべての大人向け『日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で』水村美苗/ちくま文庫 <3>

第二章「パリでの話」

 

第二章は、著者が少女時代に読んだ児童文学『小公女』(フランシス・バーネット/1888年)の紹介から始まります。

※長くなるのであらすじは省きます。とりあえず雰囲気を知るなら、1995年製作の『リトルプリンセス』は見やすくておススメです(U-NEXTにあり/舞台はロンドンからニューヨークに移されていますが)。

この章で著者が取り上げているのは、主人公セーラがフランス語と英語のバイリンガルであったという点です。セーラの亡き母がフランス人であったためですが、フランス語の授業中に「フランス語がペラペラ」であることが判明する場面があります。心根のよさで人気を集めていたセーラがさらに敬意をもたれ、「圧倒的な優位性」を確立していく筋立て。反面、そのことを知らなかった寄宿学校長が恥をかく場面でもあり、長い物語のなかでもとても印象深く描かれています。

この場面が、ヨーロッパの公用語であり、教養として不可欠の国際語であった「フランス語の威力を漠然と理解した最初」であったと著者は言います。

 

しかし、フランス語の栄光はもはや過去のもの。いまや「地域語」に近づきつつあることが、この章では語られていきます。

 

1998年、パリで開かれたシンポジウムで、著者はその変化について講演する機会を得ます。

そこで著者は、英語やフランス語のような「普遍語」を母語とする人々が生きる時間と、そうではない「地域語」を母語とする人々が生きる時間は異なること、「普遍的な時間」と「特殊な時間」、二つの時間の非対称性について語ります。

そして、英語が一強の普遍語となりつつある今、フランス語を母語とする人たちも、この非対称性を強いられ、二つの時間を生きざるを得なくなっていると伝えます。

「ようこそいらっしゃいました。ようこそ、私と同じ側へ」

シェイクスピアは世界共通の教養になっても、ラシーヌを知る人はいなくなっている世界。ラシーヌとは誰?という高校生の数は、『源氏物語』の作者を知らない数に近づいているかもしれないという現実。

では、著者ら小説家はどうしたらいいのか。なにもできないことはわかっているけれど。英語で書かないことによって何か、少し「天の恵み」に与れるのではないか。

著者が(英語で書けるにもかかわらず)日本語で小説を書き続けていることについて、『私小説from left to right』の紹介を通してその理由を語ります。

百年後、二百年後、人々が英語でしか表現しなくなることもあり得る今。

その運命に抗うべく、英語ではない言語、孤立した言葉で書き続け「日々奮闘している」と著者は講演を締めます。

 

この章の重要なポイントは、この講演を聞いたシンポジウム参加者の一人から、著者がかけられた言葉です。その女性は、イディッシュ語中欧・東欧のユダヤ人が使っていた言語)で小説を書いていた両親のことを話そうと声をかけるわけですが、前置きとして、

「日本文学のような主要な文学を書いているあなたとは比べられませんが……」

という言葉を使った―

 

「日本文学のような主要な文学」という表現がいつまでも耳に残ったと著者は言います。

 

その意味するところについて、あらためて気づきを得たのが、2003年、アメリカのアイオワ大学が主催するIWP(International Writing Program)に参加したときであったと、著者は再度、振り返ります。

 

P128~129より

何気なく口にされたその言葉に、その言葉を口にした当人が意図していた以上の意味を私が見いだすようになったのは、アイオワの青い空のもと、街路樹の葉が少しづつ黄ばんでいくなかを、「亡び」ゆく人々と暮らすうちのことであった。<中略>あのような話をフランス人の前でするのを可能にした条件そのものに、あのとき気付いていなかったことに、初めて気づいたのだった。フランス語で書かれた文学と日本語で書かれた文学とを比べるのを可能にした条件―それは、日本語が「亡びる」のを嘆くことができるだけの近代文学を持っていたという事実である。しかも、その事実が、世界の読書人のあいだで一応知られているという事実である。

 

明治・大正・昭和と国民的作家がキラ星の如く登場した日本。そして、日米開戦前後にアメリカの情報局が雇った日本文学研究者、翻訳者によって英訳され、世界に知られるようになった日本近代文学

その意味と価値を、私たちはどれだけ知っているといえるでしょうか?

 

日本近代文学の「奇跡」については、次々章で詳しく語られます。