第五章 日本近代文学の奇跡
この章では、日本近代文学というものが生まれ、花開いた過程を読者に解き明かしてくれます。
日本近代文学が生まれた、言い換えれば、明治~大正期に山田美妙、尾崎紅葉、夏目漱石、森鴎外、坪内逍遥、志賀直哉、武者小路実篤、谷崎潤一郎、芥川龍之介等々の作家が、きら星の如く現れたのはなぜか?
その仕掛けは、「大学」であったと著者はいいます。
明治時代、「大学」は、西洋語を読み書きできるようになった「二重言語者」たちが集まる場所でした。そこは、外国語を「国語」に変換する巨大な翻訳機構であり、「国語」で学問することを可能にするための最高学府でした。
そのため、「大学」は最高学府でありながら、当時の知識人にとってもっとも切実だった問題の答えを探る場ではありませんでした。
もっとも切実な問題とは、「西洋の衝撃」を受けた日本の現実をどうとらえ、この世界でどう生きていったらいいのか? という哲学的命題です。
その命題を見つめざるを得なかった「二重言語者」たちは、大学を離れて作家や評論家になり、学問ではなく文学で考える方途を探ったというわけです。
※谷崎潤一郎が不自由なく英語を読む人だったことを恥ずかしながら初めて知りました。
たとえば夏目漱石の『三四郎』。作者はこの作品をこう読んでいます。
引用P257
『三四郎』は、実は、〈大学〉を舞台にすることによって、日本で〈学問〉する困難さをあますことなく描いた作品である。別の言い方をすれば、『三四郎』は、「西洋の衝撃」を受けた当時の日本の〈現実〉をまさに〈学問の言葉〉を使わず、〈文学の言葉〉を使うことによって、どんな〈学問〉にも代えがたく理解させてくれる小説なのである。しかも、〈世界的〉な視野をもって、当時の日本の〈現実〉を理解させてくれる。
つまり、<日本近代文学>とは、外発的に西洋化(グローバル化)を強いられた国の、人々の、物語ともいえるわけです。
『三四郎』のなかで漱石は、高等学校の英語教師・広田先生に(日本は?日本の文化は?日本固有の何ものかは?)「亡びるね」と言わせています。このセリフの重さは、非西洋圏に生きるすべての人たちに、今もって届くものでしょう。
大正5(1916)年になって書かれた夏目漱石の遺作『明暗』では、主人公・津田は知識人だけれど、もはや漢籍の読めない男と設定されています。
漱石が考える次世代の人です。
この津田の弱さや不安、自己を擁護して曲げない醜さは、昭和後期に『明暗』を読んだ20代のわたしの胸を揺さぶりました。「津田は自分だ」と。
そんなこんな、世間の片隅にいる人々にも読み継がれてきた日本近代文学。
インターネット社会になり、デジタルでもアナログでもテキストが手に入りやすくなり、作品を読み書きする人はますます増えているのに……増えているからこそ、日本近代文学の「亡びは始まっている」と著者は言ってこの章は終わります。