EditorsJuniorの日記

編集・ライター兼オンライン型寺子屋の講師が書籍を紹介したり、日常を綴ったりします。

背伸びしても読むべき中高生からすべての大人向け『日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で』水村美苗/ちくま文庫/ <2>

導入となる一章は、「アイオワの青い空の下で<自分たちの言葉>で書く人々」と題し、著者がアメリカのアイオワ大学が主催するIWP(International Writing Program)に参加した2003年初秋の経験が描かれます。

アイオワ大学は、全米で初めて1936年に創作学科が設立された大学で、IWPが始まったのは1967年。世界中の名だたる作家がキャンパスに集まり、学生同士のように交流しつつ、創作活動を続けるプログラムだという。

IWPに参加した作家は、多くの場合、「英語」で意思疎通し、文学や歴史、政治について語り合います。

しかし、作家たちが自室で書く作品は違います。スペイン語や中国語、モンゴル語リトアニア語、ルーマニア語、ヴェトナム語、ビルマ語、クロアチア語などなど。

著者は、「人はなんとさまざまな<自分たちの言葉>で書いているのだろう」とその熱気に圧倒されます。一方で、母語公用語が違う国の事情、公用語が複数ある国での創作活動の困難さも知ります。あえて母語でなく英語で書いている作家の存在も目にします。

そうした環境のなかで、著者が考えざるをえなかったことが、「英語が<普遍語>となりつつあることの意味」です。

P67~P68より引用

英語が<普遍語>になるとは、どういうことか。

英語圏をのぞいたすべての言語圏において、<母語>と英語という、二つの言語を必要とする機会が増える、すなわち、<母語>と英語という二つの言葉を使う人が増えていくことにほかならない。そのような人たちがはるかに増え、また。そのような人たちが今よりもはるかに重要になる状態が、百年、二百年続いたとする。そのとき、英語以外の諸々の言葉が影響を受けずに済むことはありえないだろう。ある民族は<自分たちの言葉>をより大切にするかもしれない。だが、ある民族は悲しくも、<自分たちの言葉>が「亡びる」のを手をこまねいて見ているだけかもしれない。

言葉の専門家である言語学者の多くは、私のこのような恐れを、素人のたわごととして聞き流すにちがいない。

―中略―

言語学者にとって言葉は劣化するのではなく、変化するだけである。かれらにとって言葉が「亡びる」のは、その言葉の最後の話者(より精確には最後の聞き手)が消えてしまうときである。

いうまでもなく、私が言う「亡びる」とは、言語学者とは別の意味である。それは、ひとつの<書き言葉>が、あるとき空を駆けるような高みに達し、高らかに世界をも自分をも謳いあげ、やがてはそのときの記憶さえ失ってしまうほど低いものに成り果ててしまうことにほかならない。ひとつの文明が「亡びる」ように、言葉が「亡びる」ということにほかならない。

新学習指導要領に従って、今年度から高校国語が科目改変されていますね。

近現代の文学作品が大幅に縮小されることが話題になりました。

水村さんが憂いた方向に着々と向かっているのかもしれません。

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